昭和50年03月22日 朝の御理解
御理解 第58節
「人が盗人じゃと言うても、乞食じゃと言うても、腹を立ててはならぬ。盗人をしておらねばよし。乞食じゃと言うても、貰に行かねば乞食ではなし。神がよく見ておる。しっかり信心の帯をせよ。」
神様が見ておでられる、聞いておいでられる、そういう世界に生き抜くという事が信心なんです。ですから例え盗人じゃと言われても、乞食じゃと言われる様な事があっても、神様だけは神様は御承知だからと思うたら心の、例えばしこりならしこりがすうっと解けるまで位の所迄は信心を頂きたいですね。例えば是はあのう盗人じゃ、乞食じゃと言う様な事ではなくてもです、眼に余る様な者を見たり、聞いたりして心を例えば汚す様な事があってはならない。
それこそ神様に願ってからの事であり。又は取次を頂いてからの事であり。お願いさせて頂いてからの、此の事であるからと本当に心がすうっとする様な、ね。あのう其処迄はおかげを頂きたい。こりゃ私自身がそん所をおかげを頂きたいと思うとります。所が中々ね心のあれが例えば、泥棒と言うたとかあれが乞食だと言うたとか、又は眼に余る様な事があっても神様にお願いをする。所謂しっかり信心の帯をせよと仰せられてあるが、しっかり信心の帯が出来ておる時にはそれがすうっと頂けれる。
所が信心の帯が緩んでおると、それが気になって気になって仕方がない。それが何とはなしにいらいらの元になる。そこん所をしっかり信心の帯をせよと言われる。そう言うしっかりとした信心の帯が、何時も自分でしっかり信心の帯が出来ておるかと言う事を見て行かなければならん。迂闊にしておると、何でもない時には出来ておる様ですけれど、何か一寸そのうまぁ見たり聞いたりだけでも、心を汚したり心配になったり、又は腹が立ったりする様な事になります。
まぁ言やぁ本当に難しい事です、しっかり信心の帯をしておくと言う事は。金光様の教祖様の御理解の中に教典にはない、御理解がでておりますから一寸読んでみましょう。話を聞こう聞こうと思うて来る者には、神様が一人一人にお話をさして下さる、させなさる。神様は稽古じゃから二度までは教えでやるが良いか、聞こうと思う者は三度目には向こうから尋ねて来る。と仰るのじゃと、それを尋ねて焦れて来る者には、神様がなんぼうでも切れぬ様に話をさせて下さる。
二度まで教えても尋ねて来ぬ様な者は、稽古が嫌いなのじゃからというてお話は一つもさせて下さらん。皆さんの場合は、まぁある意味でお話しを頂こう頂こうと思うて、焦れて来よんなさるとじゃないかと思うです。毎日ここで御理解が出る所を見ると、一つ皆さん自問自答して下さい。果して自分は御教えを受ける事に言うなら焦れて来よるかどうか。今日はどういう御理解を受けるんだろうか、今日はどう言う様な信心でやらして頂こうか、それには御教えを頂いて。
そこから一つのヒントを頂いて、今日一日の支えにしたいと言った様な考え方で来る者にはね、なんぼうでもお話が出るとおっしゃるけれどもね。求めて来ない者、二度までも教えてやってもう尋ねて来ない、所謂追求して来ない求めて来ない者には、もう言うてやっても稽古が嫌いなのだから、信心の稽古が嫌いなのだから、というてお話は一つもさせて下さらんと言う事になるのです。
今日はどういう御理解だったかなというて自分で、帰って忘れる位な人はだから、そう言う事なんです、もう神様は一つもお話しを聞いてない事としてある。お話はさせて下さらんと言う事と同じ事になる訳です。そこでそのお話を求めて来る、御教えを求めて来る、自分がならそれこそ焦れる思いで、お参りして来る者の上に、お話が尽きる事がないお話が出て来るとこう言うのです。
私達が求めておる者はお話ではなくて、只自分の願いを申し述べる事だけで終始したんでは勿体ない。まして例えば人に泥棒だと言われ、乞食だと言われる様なそれこそ腹の立つと言う様な、まあ何と心が穏やかではないと言う様な時は私共が朝の例えば、皆さんこうしてお参りなさるが、今日は自分は焦れる様な思いで合楽通いをしてなかった時だ、お話をそういう思いで頂いてなかった時だと、先ず悟るべきだと思うですね。
私共は例えば教えを頂いて、本当にああ今日は是で行こうと言った様な本当にそういう信心を生き生きとさして頂いとる時ならばです、それこそ神様が見ておいでなのだから、聞いておい出なのだから、しかもその神様は生き生きと私共の上に御守護下さってある神様なのだから、日々有難いお取次ぎを頂いてからの事だからと、そこには全然問題が問題でなくてって来る筈です。
今朝がた私はお夢の中に、高柴さんが今日はどうも遅うなりましたというてから、勝手の方に私おりましたら、勝手の方にお参りして見えた所を頂いた。眼が覚めたら丁度三時十分であった。それで私は高芝さんが見えとる、お夢の中に出て見えたと言う事はどう言う事だろうかと私は思うた。そしたら毎日総代さん方が此処でお届けをなさいます。教会の行事の事から信徒全部の事、お取次を総代さん方全部が頂かれます。毎日同じ様な事を繰り返しとるから大体効果がありよるじゃろうかとまあ思う位ですね。
言うならばもう総代だから、そうせなければならない。まあ言うならマンネリになってある様な感じもせんではない。けれどもね例えば私をなら、今日三時十分に起こして下さったという、その働きは神様ですけれども、その神様が総代の言い分を聞いて、一条を立てて下さった事になるのです。今朝その事を頂いて本当に有難いなあと思いました。総代さん方が私の事をお願いして下さる。
又は教会全体の事をお願いして下さる。しかも毎日々の事であるからもう只マンネリになっておる様な、聞きよるか聞きよらんか解らん様な感じがする。なら皆さんでもそうですよね。親先生のお健康と言う様な特別なお初穂を奉ってお願いをなさる。しかも毎日々の事ですから、マンネリになって神様は聞いて下さりよると仰ろうかと言うごとあるけれどもです。なら合楽の御比礼の何処にかそういう働きが現れておるです。
神様が一筋を立てて、顔を立てて言わば私を今朝起こして下さったと言う事は、今朝だけの事ではない、もういろんな事の上にそういう働きがあっておると言う事なんです。それから高柴さんが使われなさった事は、どういう様な事であろうかと、是は又高柴さん自身の事を頂いた。だからそこには総代さんとして使われておられるだけでなくて、高柴さん自身の上にもそれがある。それがもうそのう心眼に頂いてからそのう思うのですけれど、とっても美味しいかりそうな御飯がころっと出来た。
まあぁ言うならば何と申しましょうかね。寿司米とこう申します、寿司の御飯は特によく出来とかにゃいけん、それが本当に美味しかりそうなお寿司なのです。それがあのう海苔で巻いてある。しかも中に小さく梅の紫蘇がこう入っておる。是は言うならば高柴さんの事だと、又お互いのそう言う風に頂かねばならん。高柴さんが頂いておられる今のおかげというのは、丁度海苔で巻いたしかもご飯がほっこらと出来たよい御飯を、海苔でまいて中の芯には丁度巻寿司の様な大きさですけど。
中には小さい芯が紫蘇葉が、梅の紫蘇葉が入れてあるという寿司を皿に盛ってある奴を、もう殆ど頂いてあとまぁーつ二つ残っとると言う様な御心眼を頂いた。ですから本当に私共がおかげを頂くと言う事は、寿司と言う事はまぁ本当はおかげと言う事でしょう、寿を司どると書いてある位ですから。お互いがままになると言うおかげをです、本当に巻寿司なら巻寿司らしく、中に干瓢も入っとれば、玉子焼きも入っとると。
鯛のデンブも入っとると言う様に、寿司のあのう巻寿司の中に使わして頂いて、おいしい例えば、具が入っとるという、そう言う様々な具に欠けておると言う事だと思うです。只、ままになっておる。日々のおかげを頂いておるというてもです、例えば最近此処で言われます、貧争病のない世界と成程どの人の顔を見ても、今そげなさあ今日食べる米がなかとか、払わんならん金がないとか何とはなしに工面が出来たり、御都合お繰り合わせを頂いておられて、増してや一家中あげて信心でもしておるならばです。
争いと言った様な物は先ずない。そりゃあるかもしれないけれども、お願いをしお取次を頂いて、致します所に言うならそんな深刻な争いを無くて済む、程しのおかげを頂いてとるというけれども、是は昨日頂いとったんですけれども、そのう巻寿司のね、あぁ巻き寿司のこう赤やら青やらを付けてあるとがあるでしょうが、芯が入っとらんとです、ほんな上の方だけ付いとるだけの所を頂いた。
ですから言うならば芯からの合楽での貧争病のない世界と言った様な本当のおかげ頂いとる者はいないと言う事です。只一寸形の上だけでほんにあなたん方はもうおかげを頂いて、貧乏もないですなあ争いもないですなぁ病気も本当ないですなと、成程唯頂いとるけど芯からの物それが本当な物にまだなってない。本当に言われればおかげを頂いとるけれどもが付くのです。けどもまちっと頂かにゃと言う物を感じるです。芯がない。
今日高柴さんのお知らせ私頂いたのもです、巻寿司のもうその御飯はもう見たでけでもおいしかりそうな、なにん入っとらん御飯だけでんおいしかりそうな感じですけれども、海苔が巻いてあるけれども、中に紫蘇葉が一本小さく入っておるだけである。だからお腹どんが空いとる時なら、他にはなにんいらん、是だけで結構なんですけれどもね、矢張り今日は何かないかと、何か御馳走がなからんと食べられんという時には手も出そうごとないという感じです。
だから出来得るならば、なら寿司なら寿司を頂くにしましても、中には干瓢が入っとる。玉子の厚焼きも入っとる、様々な言うならば、巻寿司に必要な具が入ってそれがおいしい御飯で、おいしい海苔で巻かれておると言う様なおかげを頂く為に、そんならばです干瓢とはどう言う様な事か、玉子の厚焼きとはどう言うものを入れる信心とはどう言う事かと言う事になるのです。
人から言うならば泥棒じゃと言われても、乞食と言われても、俺がいつ泥棒したか、俺がいつ乞食したかと言う様な心の状態ではない。それこそ神様がご覧の世界、神様が聞き通しに聞いておって下さる世界、日々お取次を頂いて起きる事だからと、それを有難く頂かせて頂く。そういう心、そういう心が私は芯になからなけれはならない。そういう芯が本当に出来くる時に、本当な意味においての、貧病争の世界、それこそ真善美に輝く世界が私は約束される。
日々信心の稽古をこうさせて頂いておるけれども、毎日お参りさせて頂いているけれども、どこが欠けておれば信心が本当に血になり肉にならないかというとです。今日は皆さんに教祖様の御理解を又の御理解を聞いて頂いた様に、焦れる思いで合楽通いをしていないと言う事。今日はどういう御理解を頂くちゃろかと、例えばそれはこうしてお話をするから聞いてはおられるけれども、帰った時に忘れてしもうておったと言う様な事ではです、なら是が一日の支えになる事は出来ません。
今日はこの教えを頂いたから此処ん所は一日守り抜かせて頂いて、信心生活をさせて貰う。今日一日の御用に使うて頂こうという、私はそう言う物がです、生まれて来るのには矢張り私共の心の中に、焦れる心と言う様なものを作って行く。何んとか工夫手立てをしなけれはいけないと言う事になります。結局本当に教祖様が仰っておられます様にです、話を聞こうと思うて来ないものにはお話を出らんと仰る。お話を頂きたいと思うて来る者には、神様がなんぼうでも話を出して下さる。
それでも二度お話をさせて頂いたら三度目にはもう話すなと、三度目には向こうから求めて来る様になる。求めて来る様になったら、話は尽きる事はない。限りなく出るもんだと教えておられます。なぜ尋ねて来るかと言うとです、御教えを行するからです。一辺ままになったら良いと言う事でない。矢張り三度三度、御飯を一回抜かしたらお腹がひもじゅうなる。飢しうなるから言うならば食欲も出る、求めもする訳です。教えもね、頂かねば血にも肉にはならんですが。
頂く事によってです又次の頂くものを求める心が生まれて来ます。信心の教えも頂かなけねば頂いておるうちにです、又解らん所も出て来る。今まで有難く感じられなかった事も有難く解って来る様になる。私はこの五十八節はもう私共の日々の生活の中にです、その泥棒と言われたり乞食だと言われる様な事が、何時もかつもあって良かろう筈が在りませんけれども、もっと手前の所でです、まあ言うならば一寸腹が立つとか、一寸いらいらするとか、そういう様な事はありましょうけれども。
そう言う様な事が私はある時には、今日は自分は焦れる思いでお話を頂いてなかったと先ず、悟らなければいけません。本当に信心が好きで教えを頂いてなかった事になるです。して見るとです、私共は本当その、日々の中に様々な、暗い思いをしたり、腹が立ったり、情けなかったりする事が余りにも多い所を見るとです、本当に信心を解る事に意欲を燃やすと言うか、焦れる思いでお参りする。
焦れる思いでお話を頂くと言う様な事に欠けておるからだと言う事を、私はしっかり信心の帯をせよと言う事は、有難く頂いた、美味しく頂いた食べ物がですそのまま、血に肉になる。なっておるから例えば普通でいうと腹の立つ様な事があっても、腹が立つ段ではない有難という事が、答えが出て来る。そういう時に私は信心の帯をしっかりしておる時だと言う風に思いますですね。
どうそ。
昨日私はどうも心に一日中、何か引っ掛っておる様な問題があったんです。そしたら夕べ寝みかけに丁度こんな色の御神米のね、金光様の字でこの私の好きなカ-キ-色で、御神米と大きく書いてあるのです。この御神米入れがね此の様に大きいんですよ。御神米の包装紙が是の何倍かある様に大きいんです。字は御神米と朱で書いてあるんです。それで私はすぐ思いました。是は包装紙ですからね、言うならばですから結局御神米が大きくなるから包装紙も大きくなっている訳です。
御神米と言う事は神様と言う事です。信心と言う事だと思うです。だから神様が大きくなろうとして、この包装紙を大きく作って下さってあるのだから、ははあ合楽が又一段と大きくなるなと、その為に今日一日あんな修行をさして頂いたんだなと思うたら心に仕えとったのがもう一辺にすうっとした。はぁこりゃぁもう、まちっと大きくならにゃいけんな、もちっと大きくならにゃいけんなと思わんでもです、心が一辺にすうっとした思いが致しました。
そしてその事に対して、又お礼をいう様な心が生まれて来ました。ですからね心に例えば仕えてどうにも出来ない様な時には、神様が結局大きくなれ、大きくなれと言って下さってある時と同時にです、次の大きなおかげを下さろうとしておる働きなんですよ。ね。一間真四角のおかげの中よりも、言わば十間真四角の中から頂いた方が良いでしょう。本当にお礼を申し上げねばならん事に一日何とはなしに心に、仕え掛かってあると言った様な事ではいけません。
それをお知らせ頂いてから要約、そのね溜飲が下がるというか胸が言わば心に不安を感じておると言うか心配していると言うか、又は何とはなしに心が穏やかでないと言う様な物がです、穏やかになって来る。私はその確かに神様が合楽の神様が大きくなんなさる。だからこんな大きな包装紙を神様は用意して下さりよるんだと思うたです。そういう例えば、働きもあっておる事ですから、愈々大きなおかげを頂く為に皆さんも大きくならなけれはいけません。
どうぞ。